達人探訪 鍵盤のマエストロ


達人探訪《鍵盤のマエストロ》繊細な音の世界の仕事人、柴田寛栄”81歳”
ピアノへの興味など微塵もなかった。
1946年、楽器研究所を主催する叔父が人手が足りないから手伝えと。
以来、ピアノ、オルガンの修理で全国を行脚する。日々が修行。
技術習得のためいくつものハードルを越えた。
そしてキャリア60年の現在、今も現役としてピアノ調律、調整の最前線に立つ。
1927年生まれ、浜松市出身。
株式会社浜松ピアノ社の創業者、取締役会長柴田寛栄。
叔父のひと言で人生激変引き込まれた未知の世界
静岡県浜松市のお寺に生まれ、小学校教諭を奉職していた柴田の人生が激変したのは、戦後の昭和21(1946)年。
楽器研究所を主宰する叔父が、「全国の学校やホールからピアノ、オルガンの修理依頼が殺到し、人手が足りない。手伝ってくれ」
ピアノへの興味など微塵もなかったが、嫌も応もなかった。
柴田は、ピアノ調律の世界へ”引っ張り込まれた”のだった。
以来20年間、修理行脚の日々が続く。
〜〜何台くらい修理したか?さて…言えるのは、ピアノよりオルガンの方が多いということだけ。
オルガンは、ちょっとした学校には20台はあったから、何万台という数になるだろう〜〜
実戦の中で腕を磨いた。
知識、技術は……自分で何とかするほかなかった
ピアノの右も左も分からない見習い期は、叔父や元楽器会社部長などの先輩に叱られ、怒鳴られるのが仕事だった。それでも食らいついて教えを請うた。
「耳を鍛えるためには、ポケットに入れたオルガンのリードを取り出してピンと弾き、”これはドの音”とヒマがあればやっていた。
知識にしろ技術にしろ、自分で何とかするほかなかった」
妥協なく、自らを叩きに叩いて耳を研ぎ澄ませていく。
その実感が喜びであり、励みだった。泣いた数だけ技術は上達した。
そんな中、広島師範学校からの修理依頼が多いことから広島に拠点をおく。
昭和30年、現在の南区稲荷町にて創業。
キャリア60年、未だ会心の仕事に未到達と!?
耳は、ピアノ調律士の命。
テレビなどから流れるピアノの音を聞いて、「これはあのメーカーのピアノ」
と無意識のうちに聞き分けている。体にしみ込んだ音の感覚は今も健在だ。
その耳で、今日も調律にいそしんでいる。柴田寛栄81歳。
現在約4,000人といわれる日本のピアノ調律師の中で現役最高齢。
「今まで修理、調律した中での会心の仕事?それは何百台に一台…いや、会心の仕事はいまだにない。
そう思っていないと力は伸びないからね」
キャリア60年の”ピアノの生き字引”はカラカラと笑う。
達人は達人ゆえに、年を忘れ、知識、技術の向上に貪欲だった。
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